弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり (冠頭讃、註P555)
合掌、瓜生津隆雄和上・隆眞和上(先生)、梯 實圓和上と、立派な和上様方に今生でおめにかかり今日迄お育てに与って参りました。まことに有り難いことであります。
さて、「りびんぐらいぶず」とは何か、「日常生活」という意味が一つ、「生きとおしの命(無量寿)」と云う意味がいま一つであります。如来様より信心を賜る私(機)が如来様のお救いの目当てという意味で「らいぶず」と複数表現にしております。
私たち凡夫は日常生活の中で、無量寿如来の本願招喚の勅命によって呼び覚まされます。その時から、如来様の仰せこそまこと、わが身こそ愚かと顧み、浄土に向かって白道を歩ませて戴きます。
その後も依然として煩悩にさいなまれないということはありません。
わが身を顧みることは極めてお粗末であります。
けれども、それより以後は、如来様の仰せに呼び覚まされ続けるのであります。
有り難いことにお念仏を賜ってあります。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、いつでも「南無阿弥陀仏」と聞こえて下さいます。
それは如来様のお喚び声でありました。
「私の口をついて出て下さるお念仏は諸仏如来の名号讃嘆のお声と何ら区別がありません」。あるとき講義の中で瓜生津隆真先生がポツリとこぼされました。
私はそのお言葉にハッとしました。
まことに親鸞聖人は「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり(銘文、註p655)。と仰せでありました。
その名号をお聞かせに与るのであります。称えれば、聞こえて下さる名号讃嘆のその名号を聞かせて戴くのであります。有り難さはひとしおであります。
「りびんぐらいぶず」は、折々に賜る問いとその回答の記録であります。
ご覧になりお慶び戴ければありがたいことであります。
忌憚のないご叱声ご指導を頂戴できれば更なる喜びとなることであります。合掌