この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候べし。あなかしこ、あなかしこ。
(Ref『末灯抄第十二通(親鸞聖人御消息第二十六通)』註釈版聖典P七八五)
合掌、年に何度か社会福祉施設を訪問布教に参ります。
そのときどんなご法話をすべきか、これは私にとり容易ならぬ課題であります。
最も困難な布教現場の一つ、それが社会福祉施設であることは間違いありません。
手さぐりのうちに、はじめのうちは与えられたお時間をお爺さん・お婆さん方のお相手をさせて戴くのがやっとでありました。
朝のNHKドラマの話題で切り出す。
童謡をご一緒に歌う。
お伽噺で楽しんでいただく。
お念仏で締めくくる。
これが私の定型番組でありました。
しかし、だんだん、これだけでよいのだろうか、と思うようになったのです。
それは、私自身の母親がささいな骨折で入院し、やがて社会福祉施設にお世話になり、ほんの少し前まで十分できていた意思疎通が困難になった頃からでありました。
「如来様のお浄土に生まれるお話」をお伝えすることができなくては
やがて思いがけず母との別れがやってきて、漸くにして私自身の踏ん切りがついたのです。
「お浄土に生まれるお話」「如来様のお喚び声のご法話」をさせて戴こうと。
お喩えに、「わが名を呼んでくれる両親の呼び声に反応したとき、どんなに両親は喜んでくれたことでありましょうや」とご案内しますと、お爺さん、お婆さん方が「おうおう」と声を立ててお慶びになります。
それを手がかりにして「南無阿弥陀仏」が如来様のお喚び声だとご案内するのです。
こうしてこれが昨今の私の施設訪問法話のスタイルとなったのです。
爾来、健康人を相手のご法話では却って私は次のよう切り出します。
「やあ、みなさん、まもなく皆さんはこの世とお別れになりますね」
このように申しても、決して自分が死ぬとは知らない大勢の人たちに
・・・いいえ「死ぬ」のではありませなんだ・・・
「如来様がわが国浄土に生まれてくるんだよ」と願うて居て下さるのですから
如来様の仰せの通りに「お浄土に生まれさせて戴く」のでありました。
ご本願におまかせすることによって、合掌
正覚寺愚住 堅田 玄宥